有馬晴信(ありま はるのぶ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての大名で、肥前国日野江藩初代藩主です。キリシタン大名で洗礼名はドン・プロタジオ。大村純忠の甥にあたります。肥前国(長崎県らへん)に勢力を誇っており、熱心なキリシタンとして、長崎近傍の浦上の地をイエズス会に寄進し、1587年に秀吉によるキリスト教禁教令が出るまで、数万を超えるキリシタンを保護していたといいます。キリスト教禁教令が出た後も個人的にはキリスト教信仰を守り続けました。朝鮮出兵では6年間朝鮮で過ごし、関ケ原の戦いでは東軍に属しました。
1609年にマカオで晴信の貿易船乗組員がマカオ市民と悶着を起こし、乗組員と家臣あわせて48人が殺されるという事件が起きます。怒った晴信は、徳川家康に仇討ちの許可を求め、長崎に来航していたポルトガル船を爆沈させました。この一連の騒動の結果、晴信は日本の国威発揚に尽力したことを手柄に、旧領復帰を家康に願い出ようとし、家康の近臣である本多正純の家来である岡本大八に白銀600枚を贈って、運動をお願いしました。しかし、まったく音沙汰がなく、不審に思った晴信は、本多正純を問い詰めたところ、正純は「何のこっちゃ?マジで知らんぞ」となりました。大八は、白銀をかすめ取っていたのです。捕らえられた大八は、だまし取ったことを認めるとともに、「晴信も、長崎奉行を殺害することを計画していたぞ!」と暴露します。結果、岡本大八は火刑、晴信は切腹と相成りました。ちなみに、晴信は自殺を禁じられているキリシタンでしたので、切腹ではなく家臣に首を切り落とさせたと伝わっています。