藤原純友(ふじわら の すみとも)は、平安時代中期の貴族・海賊で、瀬戸内海で朝廷に対して反乱を起こした人物として知られています。藤原純友の乱は、関東での平将門の乱と合わせて、承平・天慶の乱と呼ばれます。
反乱を起こした藤原氏ですが、その血統は藤原北家の藤原冬嗣の孫の孫にあたります。ただ早くに父を亡くした関係で都での出世を望めなくなり、地方官となり、伊予国(愛媛県)に赴任して海賊鎮圧業務にあたっていましたが、いつの間にやら自身が日振島(愛媛県と大分県の間の宇和海にある島)を根拠に海賊の頭領となります。やがて瀬戸内海全域に勢力を伸ばしていきました。
関東で平将門が乱を起こしたころとほぼ時を同じくした939年に瀬戸内海の海賊を率いて乱をおこし、939年には畿内摂津国(大阪府)にまで進出。940年には淡路・伊与・讃岐の国府を襲撃しました。941年には大宰府を陥落させることに成功。暴れまくります。朝廷も黙っておらず、追捕使長官・小野好古、次官・源経基を派遣。博多湾の戦いで純友の船団は壊滅させられ、純友自身は伊予へと脱出しましたが、同年941年に斬られたとも、獄中死したとも伝えられています。