承久の乱(じょうきゅうのらん)は、1221年(承久3年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いです。僕個人としては、この1221年こそが、武家政権が成立した年だと思っています。日本史全体の戦いの中でも、672年の壬申の乱、1600年の関ケ原の戦い、1868年の戊辰戦争と並ぶ、エポックメイキングな戦いだと思っています。
そもそも、鎌倉幕府の初代将軍源頼朝から三代実朝までは、れっきとした天皇家の血を引く、清和源氏です。系図もハッキリしています。
清和天皇→貞純親王→経基王(源経基)→満仲→頼信→頼義→義家→義親→為義→義朝→頼朝→頼家・実朝兄弟。
そのため、朝廷から見ても、広い意味で東国の管理を任せているだけ、半分子会社みたいな感覚だったと思います。実際、後鳥羽上皇は実朝を可愛がっており、官位の昇進もスピーディーでした。実朝暗殺に黒幕はいたのか、黒幕は誰だったのかは諸説ありますが、少なくとも、こういった朝幕の融和体制に不満や不安を抱いていた鎌倉幕府の御家人はたくさんいたと思います。
そもそも、武士たちが頼朝や鎌倉幕府を支持したのは「武士のための政治をやってくれる」と期待してでした。武士の政権であった平氏は結局、武士がトップではありましたが、平氏自体が「貴族化」してしまい、武士ではなくなってしまったようなものです。だから、武士の支持を失ってしまい、あっけなく滅亡したのです。
せっかく東国に打ち立てた鎌倉幕府という武士のための政権・政治機構が、朝廷の言いなりになってしまうのは我慢ならないわけでした。そのため、実朝暗殺以降、名目上のトップとして、京都の大貴族である摂家から後継者を迎え入れましたが、実権は執権の北条義時以下の御家人たちが握ったわけです。こうなると、後鳥羽としては当然面白くないわけなので、関係が悪化していきました。
そして、1221年に遂に武力衝突が起きたのですが、後鳥羽上皇は敗北して、土御門上皇・順徳上皇と合わせて三人が配流されることになりました。過去にも崇徳上皇のように配流された元天皇はいましたが、天皇家内部の抗争に敗れたため、勝者の後白河によって配流されたんです。後鳥羽たちは違います。臣下であるはずの鎌倉幕府によって配流が決められたのです。とんでもない事態ですよね?ヨーロッパや中国では王や皇帝が追放されるなんてことになったら、新王朝が樹立されることになるわけですが、日本ではそうなりませんでした。後鳥羽の同母兄である後高倉院が実際には天皇にはなっていませんが、院となり、後高倉院の息子で後堀河天皇の院政を取りました。もちろん、これは鎌倉幕府の意向によって決められたことです。
皇位継承が幕府の意向でなされたわけです。さらに、京都に六波羅探題を設置して、京都・西日本への支配力を強化し、承久の乱で敗者側となった荘園を数多く没収して、新しく鎌倉幕府の命によって東国の御家人たちが地頭として赴任するようになりました。
承久の乱によって、東国から西日本にまで、そして朝廷の皇位継承にまで、鎌倉幕府の影響力が増大したのでした。