金輸出解禁とは、浜口雄幸内閣における井上準之助蔵相の下で実施された政策のことですが、「なんのこっちゃ?」だと思うので説明をしますね。
現代において我々が他国との貿易をする際には基本的に「米国ドル」を基軸通貨としておこなっています。なぜなら別の国と貿易をするためにはそれぞれの内国通貨では価値が違うためにどう交換するのかを整理する必要があり、「軸」となるものが必要となります。これが現代では米国ドルですが、第二次世界大戦前は「金」だったわけです。各国の通貨というものは、それぞれ金本位制を採用して、金に対しての価値に基づいて貿易の決済がなされていたわけです。
しかし、第一次世界大戦が勃発すると、特に大戦の一大舞台となった欧州各国においては輸入超過となり、金の国外流出が危惧されるようになり、各国は「金輸出禁止」を実施するようになりました。影響の少なかったアメリカも1917年9月10日に、それを受けて日本も1917年9月12日に金輸出禁止措置を実施しました。
これは、あくまでも一時的な措置で戦争が終われば直ちに解除される性質のもので、実際アメリカは1919年7月に金輸出解禁を実施しました。しかし、日本は第一次世界大戦終結による戦後不況対策のための積極財政政策や中国に対する借款(日本から見たら貸付)のために、財政規模の拡大(日本政府の金需要の増大)が必要となるとの観測から、金輸出解禁を先送りにしていました。そこにさらに関東大震災による震災不況、さらにその後の金融恐慌も重なってさらに金解禁は先延ばしされていきます。
この間、日本は大幅な貿易赤字となり、その補填として金を輸出しようにも禁止しているため金輸出ができないため、日本円の価値が下がり、為替相場の不安定感が増していってしまいます。1928年に入るとフランスも金解禁をおこない、主要国で日本のみが金輸出禁止の状態となりました。こういった状況の中、1929年7月に成立した浜口雄幸内閣の時期には、金輸出解禁が急がれたわけです。
金解禁をするためには、じゃあ「いったいいくらで金=日本円を設定すべきなんだ?」という問題があります。金輸出を禁止している間に、日本円は貿易赤字+積極財政によって、価値が下がっていました。円安になっていたんですね。そのため、浜口雄幸内閣の井上準之助蔵相は「緊縮財政を実施して、日本の財政ジャブジャブをやめてデフレ(物価を下げる=通貨価値が上がる)にもっていって、金輸出禁止前の円高な為替水準(これは旧平価といいます)にもっていった上で、金を解禁しよう!」とします。デフレが起きると、現代の我々もよくわかるように経済は不景気になってしまいますが、逆にそれによってゾンビ企業を一掃して、日本の産業の国際競争力を高めていくこと、それが第一次世界大戦が終結して10年来の日本の不況を払拭するために必要なことだと考えたのです。
金解禁に向けた準備をしている中、1929年10月24日にアメリカのウォール街にて株価大暴落が起きましたが、井上らはこれは通常の恐慌の範囲内だと判断して、1930年1月に金輸出解禁を当初の予定どおり、旧平価で実施したのです。
もろもろの政策を導入したとはいえ、実際の日本円の実力よりもまだまだ、旧平価は円高の水準にありました。国内はデフレ政策によって、市場規模が小さくなっている。一方の国外については、アメリカが大恐慌で米ドルが相対的に弱くなり、さらに円高に拍車がかかってしまい、輸出市場においても日本は円高のために国際競争力を失ってしまった。国内もダメ、輸出もダメとなれば、当然日本国内も不況となり、昭和恐慌が発生してしまったのでした。
日本国内では、金輸出解禁直後から、銀価格の暴落が始まり、さらに生糸価格も暴落、そして米価の暴落と進み、企業の倒産が進み、大量の失業者が発生。中小企業や農村の窮乏化が進んでしまいました。
さらに緊縮財政とも絡んで、ロンドン海軍軍縮条約をめぐって軍部からの反感も買ってしまい、ついに1930年11月に浜口雄幸首相が狙撃(翌年、この傷がもとで死去)され、内閣内の政策不一致もおき浜口内閣は倒れて、1930年12月13日に犬養毅内閣が成立すると、その日のうちに金輸出は再禁止となりました。金輸出解禁に向けて尽力した井上準之助は、経済悪化などを理由に標的とされ、1932年2月に暗殺されました。
浜口雄幸と井上準之助の墓は、どちらも青山霊園にあり、二人は隣同士に埋葬されています。