若槻礼次郎(わかつき れいじろう)は、1892年帝国大学法科大学を卒業し、大蔵省に出仕。主税局長、大蔵事務次官を歴任して、その後政界に入って第3次桂内閣、第2次大隈内閣では大蔵大臣を務めました。1924年には加藤高明内閣の内務大臣(治安維持などの担当大臣)に就任し、普通選挙法・治安維持法の成立に尽力。1926年1月30日に第1次若槻内閣を組閣し、大正から昭和の代替わりを経て1927年4月20日まで務めます。その後、ロンドン海軍軍縮会議首席全権を経て1931年再び首相に就任して第2次若槻内閣を組閣。世界大恐慌と濱口内閣の緊縮政策により深刻な不景気を迎えていた国内では「満蒙(満州とモンゴル)は日本の生命線」とまで言われるようになっていましたが、満州は蔣介石の北伐の完成により日本の権益保持が危機に瀕していました。同年9月18日には柳条湖事件を契機とした満州事変が発生し、若槻の不拡大方針は国民、軍部への指導力を発揮することができず、ついには閣僚にも見放された状態で12月には閣内不一致による総辞職となりました。その後、若槻は首相経験者の立場で政治に参画し、重臣会議のメンバーになります。重臣グループでは岡田啓介とともに和平派・穏健派の中心人物であり、日米開戦に反対し、開戦後は和平派の立場をとりました。