阿部正弘(あべ まさひろ)は、江戸時代末期の譜代大名で、江戸幕府の老中首座を務めました。黒船来航などの幕末の動乱期にあって安政の改革を断行したことで有名です。第12代将軍・徳川家慶から目をかけられ、弘化2年(1845年)9月に老中首座になりました。
阿部正弘は家慶、家定の2代の将軍に仕えて、幕政を統括しましたが、老中在任中には、度重なる外国船の来航やアヘン戦争で中国が敗北するなど対外的脅威が深刻化した時期でした。その対応のため、弘化2年(1845年)から海岸防禦御用掛(海防掛)を設置して外交・国防問題に当たらせます。また、それまで幕政(中央政治)は、将軍と譜代大名によって運営されていましたが、薩摩藩の島津斉彬や水戸藩の徳川斉昭など諸大名から幅広く意見を求めます。また、身分によらず、川路聖謨、江川英龍、ジョン万次郎、岩瀬忠震などを引き上げて大胆な人材登用も実施しました。
弘化3年(1846年)、アメリカ東インド艦隊司令官ビッドルが浦賀へ来航して通商を求めましたが、正弘は鎖国を理由に拒絶。さらに7年後の嘉永6年(1853年)にはペリー率いる東インド艦隊がアメリカ大統領フィルモアの親書を携えて浦賀へ来航します。同年7月には長崎にロシアのプチャーチン率いる艦隊も来航して通商を求めてきました。
この国難を乗り切るため、阿部正弘は朝廷を始め、外様大名を含む諸大名からも意見を募りましたが、結局有効な対策を打ち出せず、時間だけが経過しました。また、松平慶永や島津斉彬らの意見により、徳川斉昭を海防掛参与に任命したことなどが諸大名の幕政への介入の原因となり、結果的に幕府の権威を弱める一方で雄藩の発言力の強化及び朝廷の権威の強化につながりました。
こうして正弘は解決の糸口を見出せないまま、事態を穏便にまとめる形で、嘉永7年1月16日(1854年2月13日)、ペリーの再来により同年3月3日(3月31日)、日米和親条約を締結させることになり、約200年間続いた鎖国政策は終わりを告げました。この条約締結に反対した徳川斉昭は、締結後に海防掛参与を辞任することになり幕府内部も軋轢が生じます。
安政2年(1855年)、攘夷派である徳川斉昭の圧力により阿部正弘は開国派を罷免すると、開国派であった井伊直弼らの怒りを買ってしまいます。孤立を恐れた正弘は10月9日、開国派の堀田正睦を老中に起用して老中首座を譲り、両派の融和を図りました。
こうした中、正弘は江川英龍、勝海舟、大久保忠寛、永井尚志、高島秋帆らを登用して海防の強化に努め、講武所や長崎海軍伝習所、洋学所などを創設していきます。後に講武所は日本陸軍、長崎海軍伝習所は日本海軍、洋学所は東京大学の前身となります。また、西洋砲術の推進、大船建造の禁の緩和など幕政改革(安政の改革)に取り組みました。
しかし、安政4年6月17日(1857年8月6日)、老中在任のまま江戸で急死。享年39歳の若さでした。