堀田正睦(ほった まさよし)は、江戸時代後期の大名・老中首座を務めました。11代将軍・徳川家斉没後の天保12年(1841年)3月23日に老中に任命され、老中首座の水野忠邦が着手した天保の改革に参与します。しかし、堀田正睦は、忠邦の改革は失敗に終わると見抜いて、病気と称して辞任。堀田正睦の辞任から5日後に忠邦が失脚したため、堀田正睦は政治生命を温存することに成功しました。
安政2年(1855年)に当時の老中首座であった阿部正弘の推挙を受けて再任されて老中になり、正弘から老中首座を譲られました。安政5年(1858年)、アメリカ総領事のハリスが日米修好通商条約の調印を求めて来ると、堀田正睦は上洛して孝明天皇から条約調印の勅許を得ようとしますが、不首尾におわり手ぶらで江戸へ戻ることとなってしまいました。
その一方で、同年、将軍・家定が病に倒れ、その後継ぎをめぐって徳川慶福(紀州藩主)を推す南紀派と、徳川慶喜(一橋徳川家当主)を推す一橋派が対立する安政の将軍継嗣問題が起きてしまい、南紀派の工作によって井伊直弼が大老に就任すると、直弼は正睦は老中を罷免されて、政治生命が絶たれてしまいました。