薩長同盟(さっちょうどうめい)は、幕末の慶応2年1月21日(1866年3月7日)に締結された、薩摩藩と長州藩の政治的、軍事的同盟です。薩長盟約、薩長連合ともいいます。
薩摩藩と長州藩は、京都を中心とする幕末の政治世界において雄藩として大きな影響力を持っていましたが、薩摩藩は公武合体の立場から幕府の開国路線を支持し、また幕府は存続させた上での幕政改革を求めていました。一方の長州藩は、急進的な破約攘夷論(外国と結んだ条約など破棄して、外国勢力を武力で追い出せ!)を展開して反幕的姿勢を強めていました。それに加えて禁門の変などで両者間には武力衝突もあり(すなわち、薩摩藩藩士に殺された長州藩士もいるし、長州藩士に殺された薩摩藩士もいて、お互いが仇同士ということですね)、容易には両藩が同盟を結ぶなどということはありえない関係にありました。
長州藩は、八月十八日の政変→禁門の変→朝敵→第1次長州征討と窮地に立たされます。一方で薩摩藩も、自藩の主張する幕政改革の展望が開かれず、大久保利通や西郷隆盛らを中心に幕府に対する強硬論が高まっていきました。
日本の政治情勢を打開し、日本国内が統合していく上でも長州・薩摩間の和睦は重要事項となり、福岡藩の尊皇攘夷派の周旋によって、イギリスの駐日公使であるハリー・パークスが高杉晋作と会談したり、薩摩や同じく幕末の政界で影響力を持っていた土佐藩を訪問したりするなどして西南の雄藩を結びつけさせていきました。
土佐藩の脱藩浪人で、長崎において亀山社中(後の海援隊)を率いていた坂本龍馬や中岡慎太郎の斡旋もあって、薩長双方の会談が進められ、慶応元年(1865年)閏5月に下関での会談を西郷が直前に拒否する事態もありましたが、その後、薩摩藩の名義貸しによる長州藩の武器購入を実現させたことにより、長州藩主父子が薩摩藩主父子に対して、礼状を送付するに至って、薩長融和の実現が大きく前進しました。さらに薩摩藩は、第2次長州征討について断固反対の周旋を行って、薩長融和への動きが加速されていったのです。
そんな中で慶応2年(1866年)1月21日(18日、22日説も)に坂本竜馬を介して薩摩藩の西郷隆盛らと長州藩の桂小五郎(木戸孝允)らが、6か条の条項での薩長同盟を締結するに至りました。この密約に基づいて薩摩藩は幕府による第2次長州征討に際しては出兵を拒否し、以後薩長の連携関係が深まっていくこととなったのです。
なお、この薩長同盟は、倒幕のための軍事同盟で、その後の王政復古や戊辰戦争への第一段階となりましたが、このタイミングではまだ倒幕を目指していたかどうかについては異論を唱えている人もいます。