徳川家慶(とくがわ いえよし)は、江戸幕府の第12代将軍(在職:1837年 - 1853年)で、子沢山将軍である11代・徳川家斉の次男として江戸城で生まれます。長兄である竹千代が早世したために将軍継嗣となり、天保8年(1837年)に45歳で将軍職を父から譲られました。ただ、将軍就任直後は、まだ家斉が大御所として強大な発言権を保持していたのでお飾りでした。天保12年(1841年)、 家斉が死ぬと老中首座・水野忠邦を重用して、家斉派を粛清。天保の改革を実行しました。また、家慶政権期には言論統制も行なわれ、高野長英や渡辺崋山などの開明的な蘭学者を弾圧する「蛮社の獄」が起きます。そして最大のハイライトと言えるのが、ペリーの来航でしょう。
諸外国からの日本への開国アプローチが多々ある中、オランダ国王ウィレム2世の開国勧告を謝絶し、阿部正弘の意見を容れて海防掛を常設させるなどしていた家慶でしたが、嘉永6年(1853年)6月3日、アメリカのペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀沖に現れ(黒船来航)ました。幕閣がその対策に追われている真っ最中の、6月22日に死去。享年61。暑気当たりで倒れた(熱中症による心不全)ことが死の原因と言われています。
最期まで心労の絶えない生涯でしたね。