ラジレキ

要点から背景まで、流れでおさえる日本史の全体像

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水野忠邦

水野忠邦(みずの ただくに)は、日本の江戸時代後期の大名、江戸幕府老中。さいしょ肥前国唐津藩主で、のち遠江国浜松藩主となりました。天保の改革の指導者で有名です。あんまり評判の宜しくない人物です。

まず、水野忠邦はとても出世欲の強い男でした。幕閣として昇進する事を強く望んでいたんですね。そのために、多額の費用を使っての猟官運動というか、賄賂工作をします。その結果、文化13年(1816年)に奏者番というポジションになるんですが、忠邦は満足しません。「俺は奏者番以上になるんだ!」と熱望しますが、彼の領地である唐津藩は、長崎警備の任務もあります。「いやあ忠邦くん、君を出世させたいんだけどさ、長崎の警備をしっかりやってもらわなきゃ」というわけです。忠邦は、自分が唐津藩藩主であることが、中央幕閣としての昇格に足かせとなっていると分かるや、家臣たちの諫言を押し切って翌文化14年(1817年)9月、実封25万3,000石の唐津から実封15万3,000石の浜松藩への転封を自ら願い出て実現させました。そりゃあ収入が減るわけですから、幕府としてはどーぞどーぞって感じですよね。唐津藩の領地だった一部が幕府領に召し上げられた地域があり、地元民には国替えの工作のための賄賂として使われたのではないかという疑念と、幕府領の年貢の取立てが厳しかったことから、忠邦は後年まで恨まれています。出世欲にまみれたクソヤローって感じですね。

この国替えによって、忠邦の名は幕閣に広く知れ渡りました。これにより同年に寺社奉行兼任となります。寺社奉行はかなりの高いポジションです。忠邦は、幕府の重臣となったことで、むしろ今度は他者から猟官運動の資金(賄賂)を受け取る立場となりました。ゲスイ。その後も順調に出世を果たして1839年に老中首座となりました。

とはいえ、そんな彼も政治家として、日本の海防を放漫な大御所政治に危機感を抱いており、徳川家斉が死んで、12代将軍・家慶が実権を握ると、家斉の旧側近を罷免して天保の改革に着手しました。しかし、改革はあまりに過激であったことから大名・旗本・庶民の反対と恨みを買い失脚。庶民は寺院にあった木魚を乱打しながら、「水野は叩くに(忠邦)もってこいの木魚だ」と歌われたといいます。

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