渡辺崋山(わたなべ かざん)は、江戸時代後期の武士・画家です。三河国田原藩の家老を務めていました。
1837年にモリソン号事件が起きると、崋山は、幕府の打ち払い政策に危機感を持ち、これに反対する『慎機論』を1838年に書きました。しかし、この書は論旨が一貫せず、モリソン号についての意見が明示されないまま、ただ徒に幕府高官に対する激越な批判で終わるという不可解な文章になってしまっていました。田原藩の家老として幕府の政策自体を批判することをはばかったためと思われます。
結局、崋山は『慎機論』の提出を取りやめて草稿のまま放置していたのですが、この原稿が1839年の蛮社の獄における家宅捜索で押収されて、断罪の根拠となりました。1841年、田原藩の屋敷にて渡辺崋山一家は謹慎生活を送っていたのですが、その貧窮ぶりを憂慮した門人らの計らいで江戸で崋山の書画会を開き、その代金を生活費に充てることにしたところ、「生活のために絵を売っていたことが幕府で問題視された」などの風聞が立ってしまい、藩・周囲への迷惑を避けるため、切腹して果てました。