中曽根康弘(なかそね やすひろ)は、内務官僚出身の政治家で、1947年から2003年まで衆議院議員に連続20回当選し1982年から1987年の間に内閣総理大臣を務めました。
若手議員の頃は「青年将校」と呼ばれ、反吉田茂の急先鋒で、自由民主党が結党されると鳩山一郎に近い、河野一郎の派閥に参加。1959年に岸信介内閣で科学技術庁長官として初入閣しました。1965年に河野一郎が死去すると中曽根派をつくって政権獲得を目指すようになり、「三角大福中」の一人に数えられるようになりました。
「三角大福中」とは佐藤栄作の後継者を争った有力者である「三角大福」の三木武夫・田中角栄・大平正芳・福田赳夫に、中曽根康弘を加えて各自の名前の一文字を取ってあらわした言葉です。この時点では中曽根は前の四人よりも半歩後ろにいる状況でした。実際、この五人の中で総理大臣になったのは最後でした。
総理大臣の時には、アメリカのロナルド・レーガン大統領と「ロン・ヤス関係」という強固な関係を見せ、アメリカとの貿易摩擦などにより悪化していた日米関係を改善させました。国内では日本国有鉄道など3公社である国鉄、電電公社、専売公社を民営化し、JR、NTT、JTを誕生させました。
2019年の死去時101歳は、首相経験者としては、東久邇宮稔彦王(102歳48日)に次ぐ2番目の長寿でした。ちなみに身長も交渉178cmで、歴代内閣総理大臣としては大隈重信の180cmに次ぐ2番目の高身長でした。