吉田茂(よしだ しげる)は、外交官出身の政治家。東久邇宮内閣や幣原内閣で外務大臣を務めたのち、内閣総理大臣に就任し、1946年5月22日から1947年5月24日、及び1948年10月15日から1954年12月10日まで在任しました。優れた政治感覚と強いリーダーシップで戦後の混乱期にあった日本を盛り立て、戦後日本の礎を築いた人物です。戦後に内閣総理大臣を一旦退任した後で再登板し、かつ長期政権を築いたのは吉田茂と安倍晋三の2人のみです。
1906年に外交官試験に合格し、外務省に入省。同期入賞者にはのちに首相を務め、唯一の文官での戦犯死刑判決を受けた広田弘毅などがいました。外交官としてのキャリアをスタートさせた吉田茂は、1919年にパリ講和会議に出席をしますが、入省後20年の多くは中国大陸で過ごします。当時の外交官としての花形は欧米勤務でしたので、傍流でした。吉田茂は、中国権益の確保に積極的で、しばしば軍部よりも強硬な姿勢をみせることもあったといいます。
1931年からは駐イタリア大使となりますが、外交的には英米との関係を重視。この頃、急速に軍事力を強化していたドイツとの接近には常に警戒していたため、親ドイツ・イタリア派から警戒されていました。1936年には駐イギリス大使となり、日英親善を目指しますが、極東情勢の悪化の前にうまくいきません。また、日独伊三国同盟にも強硬に反対しますが、吉田茂はますます外務省での居場所を失い、1939年には閑職に外され外交の一線から退くことになりました。
太平洋戦争開戦前に、開戦阻止を目指す運動をしますが実現せず、開戦後も和平工作に従事し続けますがこちらも実現しません。1945年には憲兵隊に拘束されます。40日あまり後に不起訴・釈放となりましたが、この戦時中の投獄が戦後には幸いして、「反軍部」としてGHQの信用を得ることになったと言われています。
戦後になると、東久邇宮内閣と幣原内閣で外務大臣を務め、1946年には鳩山一郎の公職追放に伴いその後任総裁を引き受けて内閣総理大臣に就任しました。1947年の日本国憲法公布後の総選挙で第一党を日本社会党に奪われ下野。その後、昭和電工事件で左派政権が崩壊すると、1948年から再び内閣総理大臣を務め、1954年まで長期政権を築きました。
内閣総理大臣の間には、サンフランシスコ平和条約・日米安全保障条約を調印し、戦後日本の独立と国際社会への復帰に導きました。内閣総理大臣退任後も大磯の自邸には政治家が出入りし、政界の実力者として隠然たる影響力を持っていました。
吉田茂にはこんなエピソードが残っています。ある日大磯を訪れた財界人が吉田に「なにか健康の秘訣でもあるのですか」と尋ねると、「それはあるよ。だいたい君たちとは食い物が違う」と吉田は答えます。何を召し上がっていると健康にいいのか、ぜひ聞きたいとその財界人が身を乗り出すと、「それは君、人を食っているのさ」と吉田はからからと笑ったといいます。さすがイギリス好きなジョークですね。満89歳でなくなった吉田茂は戦後初の国葬が営まれました。