京都守護職(きょうとしゅごしょく)は、幕末に将軍後見職、政事総裁職とともに設けられた江戸幕府の三要職の一つです。
大坂城代、京都所司代、京都・大阪・奈良・伏見の各奉行の上位に位置し、非常時は畿内諸藩の軍事指揮権も有していました。当時幕府の権威低下に伴い、京都には諸国から尊王攘夷派の過激志士らが集い、治安の悪化が懸念されていました。元来、江戸幕府においては京都所司代・京都町奉行が京都の治安維持の任についていましたが、過激派による騒乱が横行し、所司代・奉行所のみでは防ぎきれないと判断した幕府が、京都市中(洛中)の治安維持及び御所・二条城の警備などを担う役割として設置したのです。
会津藩主・松平容保が文久2年閏8月1日(1862年9月24日)に就任。京都に着任し、原則的に藩兵1,000人が京都に常駐させ、1年おきに交替しました。容保は初め徳川慶喜・松平慶永からの再三の就任要請を断っていました。理由は、藩財政は既に浦賀、蝦夷地の警備の任にあったことで窮乏状態、そして家臣たちも就任反対で意見が一致していたのです。しかし、松平慶永から会津藩祖・保科正之の「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在」との家訓を引き合いに出したため、ついに承諾しました。任を受けた君臣は会津藩の江戸藩邸にあって「これで会津藩は滅びる」と、肩を抱き合って慟哭したと伝わっています。
京都守護職は京都所司代・京都町奉行・京都見廻役を傘下に置き、見廻役配下で幕臣により結成された「京都見廻組」も支配下となった。しかしながら所司代・町奉行・会津藩士のみでは手が回りきらなかったため、守護職御預かり(非正規部隊)として「新選組」をその支配下に置き、治安の維持に当たらせました。京都守護職としての松平容保に対する孝明天皇の信任も篤かったです。
慶応3年(1867年)10月に将軍となっていた徳川慶喜は大政奉還で江戸幕府の支配を形式上終焉させると、薩摩藩や長州藩は12月9日(1868年1月3日)の王政復古の大号令をだして、摂関・幕府そして京都守護職・京都所司代の廃止が宣告されたことにともない、京都守護職は設置後6年をもって廃止されました。