政事総裁職(せいじそうさいしょく)は、江戸時代後期、幕末に新設された将軍後見職・京都守護職と並ぶ江戸幕府三要職の一つです。
幕末になると、ペリー来航に象徴される対外危機意識を背景に、従来は幕政から疎外されてきた朝廷や諸大名層からの政治参加要求が高まりました。その中で、徳川宗家に近い高い格式を誇り、対外危機意識をも共有する親藩大名は、従来の譜代大名中心の幕政に風穴を開けるべく期待をかけられる存在でした。
文久2年(1862年)、朝廷は、一橋慶喜を将軍後見職に、家門の福井藩主・松平慶永を大老職に就けるよう幕府に要求されたため、松平慶永を政事総裁職としました。当初、慶永には大老職が打診されていたのですが、慶永が「大老は譜代大名がなるもの」と主張したことから、政事総裁職として新設されました。
慶永は横井小楠をブレーンとして、慶喜らとともに「文久の幕政改革」を行いましたが、翌文久3年(1863年)、将軍徳川家茂の上洛工作のために滞京中、朝廷の強硬な対外意見と自らの対外意見とのあいだで進退窮まり、3月2日に辞表を提出し、それが受け入れられないまま領国の越前に帰国してしまいます。このため、3月25日に逼塞処分とされて総裁職を罷免されました。
後任は、同じく徳川家門の川越藩主・松平直克が任命されましたが、幕閣と対立し、元治元年(1864年)6月22日に辞職し、その後に政事総裁職に就任する人はいませんでした。