本来、律令体制においては全ての土地と人民が「天皇家領」だったわけです。しかし、大貴族による荘園が増えてくると、政府としての朝廷領が侵食されていく中、天皇家の私領としての荘園が広がっていきます。これらは一連の荘園整理令の中で、没収されたものや、院政期において上皇(あらためてですが、上皇や院というのは、朝廷(正式な政府)とは別の組織体です。)へ荘園の寄進が進んでいきます。一方で、鳥羽法皇の死後は、天皇家内部の抗争などで、それらの天皇家領の所有者が、天皇家の中でも色々と分散化していたのです。
たとえば、後白河天皇が即位したときは、
・鳥羽法皇が、「安楽寿院領」
・崇徳上皇が、「法金剛院領」
・八条院(後白河の異母妹)が、「八条院領」
などなど言われていますが、それぞれは一か所に纏まった荘園ではなく、全国に600~700か所の荘園を天皇家全体としては、保有していたみたいんですよね。
後白河院政期には、これが大きく分けて以下の二つの荘園群となります。
・「長講堂領」(後白河が集積を進めて保有)
・「八条院領」(八条院が、鳥羽の荘園群などを含めて八条院領が拡大)
この二つの巨大荘園群は、後鳥羽天皇には渡されていなかったのです。しかも後白河の死に当たっても後白河が保有していた「長講堂領」は、後鳥羽ではなく宣陽門院(後白河の娘)に相続されたのでした。
後鳥羽としては、天皇家内部で分散してしまっている荘園財源を一元化(自分のところに集約化)したいと考えます。
まず長講堂領については、自分の息子を宣陽門院の養子として相続させようとし、八条院領についても、自分の娘を八条院の養子として相続させ、さらに順徳天皇(後鳥羽の息子)に相続させました。
このようにして、経済的な基盤を後鳥羽に集約させていったのですが、承久の乱の敗北により、天皇家の所領群は一時、鎌倉幕府の管理下におかれたり、その後の皇統分裂に伴って分散化してしまうのでした。