フェートン号事件(フェートンごうじけん)は、文化5年8月(1808年10月)、鎖国体制下の日本の長崎港で起きたイギリス軍艦侵入事件です。
当時のヨーロッパは、ナポレオン戦争の真っ最中で、日本が貿易を許可していたオランダ国王にナポレオンの弟が即位していました。フランスと対立していたイギリスは、オランダのアジアにおける貿易拠点に嫌がらせをする行為をしていて、その一環として、イギリス軍艦フェートン号が長崎に入港して、オランダ商館員を捕えて薪水、食糧などを強要し、乱暴を働くという事件が発生したのです。
長崎奉行所では食料や飲料水を準備して舟に積み込み、オランダ商館から提供された豚と牛とともにフェートン号に送ったところ、これを受けてオランダ商館員は釈放され、フェートン号は立ち去りました。結果だけを見れば日本側に人的・物的な被害はなく、人質にされたオランダ人も無事に解放されて事件は平穏に解決しました。
しかし、手持ちの兵力もなく、侵入船の要求にむざむざと応じざるを得なかった長崎奉行の松平康英は、国威を辱めたとして自ら切腹。また、地元の鍋島藩は、長崎警備の任を怠っていたとして、鍋島藩家老等数人が切腹。さらに藩主の鍋島斉直も100日の閉門が命じられる始末となりました。
この屈辱を味わった鍋島藩は次代鍋島直正の下で近代化に尽力し、明治維新の際に大きな力を持つに至ったのです。