1281年の第2回の元・高麗・旧南宋軍による日本侵攻です。一度目である文永の役の失敗を踏まえて、新たに降伏させた旧南宋軍も含めた大部隊・大艦隊を編成して、日本に再度攻撃をしかけてきました。文永の役後、日本は沿岸部に石築地での防塁をつくったり、亀山上皇の直筆と伝わる「敵国降伏」の扁額を筥崎宮に掲げたり(今も残っています)して、応戦・防衛準備を整えていました。そのため、数ヶ月に亘って防衛をすることに成功し、最終的に台風が襲来して元・高麗・旧南宋軍は海の藻屑となりました。フビライは第3回の日本遠征を考えていたようですが、各地での反乱などに手を焼き、ついに3度目の襲来はないままに終わりました。
ちなみに、元寇の勝利の要因は、北条時宗の指導力でも、御家人たちの奮闘でも、神風の襲来でもなく、亀山上皇の「敵国降伏」の扁額が利いたとされ、そのため、北条時宗の昇進も小幅で終わってしまったのでした。その後、明治時代になって、いや「北条時宗が指導力を発揮してくれたからだろ!」となり、日露戦争の1904年に時宗に従一位が贈られることになったのでした。