明治十四年の政変(めいじじゅうよねんのせいへん)とは、明治14年(1881年)10月に参議大隈重信が明治政府中枢から追放された事件です。自由民権運動が勃興する中で発生した開拓使官有物払下げ事件に端を発した事件です。大久保利通暗殺後、明治政府内では、伊藤博文(長州藩出身)と大隈重信(肥前藩出身)が実力者としていましたが、この事件にて大隈と大隈系官僚が政府から去りました。大隈辞職後の翌日に開拓使官有物払い下げの中止と国会開設の勅諭が公表されました。
1881年(明治14年)、開拓使官有物払下げ事件が明るみに出たことに対して、参議の大隈重信は新聞も使って、開拓長官の黒田清隆を鋭く批判し、早期の国会開設を主張しました。イギリス流議院内閣制に基づく憲法の制定と国会の一刻も早い開設を主張する大隈とドイツ流の君主大権を残したビスマルク憲法を範とすべきと主張し、国会開設は時期尚早であり立憲政体の整備は漸進的に進めるべきだとする伊藤が対立し、伊藤が大隈を政府から追放したのです。
この政変の結果、イギリス流を目指していた大隈重信が政府を去ったことにより、伊藤博文によってのちにプロイセン風の憲法が制定されることになりました。また、政府を去った大隈と大隈系完了は政党結成に動いて、立憲改進党を設立しました。