源経基(みなもと の つねもと)は、平安時代中期の皇族・武将。経基流清和源氏の初代。『保元物語』によれば、父は清和天皇の第6皇子・貞純親王で、母は右大臣・源能有の娘。皇族に籍していたとき「六孫王」と名乗ったとされますが、当時の文献では確認できず。居館は六宮とも八条御所とも呼ばれました。
938年に武蔵国(現東京都・埼玉県・神奈川県の一部)に赴任。現地の豪族ともめ、仲裁にやってきた平将門らに殺害されると思い、京へと逃げ帰り、朝廷に平将門らが謀反を考えていると訴えました。この時は平将門と常陸・下総・下野・武蔵・上野5カ国の国府からは「謀反は事実無根」との証明書が939年5月に出され、時の権力者藤原忠平によって認められました。逆に経基は讒言の罪によって左衛門府に拘禁されてしまいます。しかし、同年11月に将門が関東の国府襲撃を開始、さらに12月に「新皇」を名乗ると、経基の訴えが現実となったことから放免され、征東大将軍の副将の1人に任命されました。将門の反乱平定にむかう途上で、反乱が平貞盛と藤原秀郷によって鎮圧されたと知り、帰京。
次に941年に小野好古とともに藤原純友の乱の平定に向かいますが、ここでも既に好古によって乱は鎮圧。純友の家来を捕らえるにとどまりました。しかし、その後、経基は、武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司を歴任し、最終的には鎮守府将軍にまで上り詰めました。要領のいい人だったんでしょうかね。
経基の家系から、経基→満仲→頼信→頼義→義家→義親→為義→義朝→頼朝(鎌倉幕府初代将軍)と続きます。