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室町幕府の滅亡

室町幕府の滅亡は、一般的に元亀4年(1573年)7月に15代将軍・義昭が織田信長によって京都から追放された時点とされています。

ただ、信長が将軍を追放する以前にも、天文22年(1553年)8月に13代将軍義輝が三好長慶に敗れて京都から脱出。その後、長慶が将軍を擁立しない独自の政権を畿内に打ち立てていた例があります。この時は、永禄元年(1558年)11月に義輝・長慶の間で和解が成立。義輝は、京都に戻ることができました。

1573年に足利義昭は京都から追い出されたものの、まだ、征夷大将軍を解任されたわけではなく、信長の勢力圏外においては依然将軍としての権威を保持していました。そのため、13代将軍義輝のように、15代将軍義昭も京都に復帰する可能性というのは、1573年時点ではまだ残っていたのです。

実際に、義昭追放後も彼を支援する中国地方の毛利氏との交渉で、信長も義昭が人質を出すのであれば復帰を認めるまで交渉が進みました。このときは、義昭が信長の要求を蹴ったため京都復帰は実現せず、結局義昭が政権に返り咲くことはありませんでした。

こういった経緯を踏まえ、歴史上では、1573年の義昭の京都追放時点に遡及して中央政権としての室町幕府の滅亡が確定した=室町幕府滅亡の年と捉えているのです。

なお、天正16年(1588年)1月13日、義昭は関白・豊臣秀吉とともに参内して、征夷大将軍の地位を返上。これによって名実ともに室町幕府は消滅しました。

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