日本は、幕末の安政五カ国条約によって米・英・仏・蘭・露と不平等条約を締結することになりましたが、その不平等な内容として、関税自主権の喪失と領事裁判権の定めがあります。領事は本来、外交官であって裁判官ではありませんから、領事裁判ではしばしば本国人に極めて有利な判決が下されました。そのため、領事裁判権撤廃は明治政府の外交にとって大きな課題となり、1871年末からの岩倉使節団による予備交渉から撤廃の努力を始めました。その後、1886年のノルマントン号事件など領事裁判権撤廃問題と絡んだ大きな政治問題も発生し、国民にとっても関心の高いものとなりました。井上馨、大隈重信ら歴代の外交担当者も条約改正に鋭意尽力し、第2次伊藤内閣の陸奥宗光外務大臣の下、駐英公使青木周蔵の努力によって、1894年の日清戦争開戦直前に日英通商航海条約が結ばれて領事裁判権撤廃がようやく実現したのでした。翌年にかけては他の欧米各国とも同様の改正条約が締結されました。改正条約の発効は、調印より5年を経過した1899年(明治32年)からで、これにより日本では国内の外国人居留地が廃止され内地雑居が実施されることにもなりました。