青木周蔵(あおき しゅうぞう)は、長州出身の明治・大正期の日本の外交官、政治家です。
1873年(明治6年)に外務省へ入省。翌1874年(明治7年)には駐独代理公使、さらに駐独公使となってドイツに赴任。ちなみにこの赴任中にプロイセン貴族の令嬢エリザベートと知り合い、既に結婚していた青木は離婚をしてエリザベートと再婚しました。
1879年(明治12年)、妊娠中のエリザベートを連れて帰国して、条約改正に本国から取り組みましたが、1880年(明治13年)、井上馨外務卿の下で再度駐独公使としてベルリンに赴任。1882年(明治15年)には伊藤博文のヨーロッパでの憲法調査を助けます。1885年(明治18年)、オランダやノルウェー公使をも兼務し、翌年に帰国。帰国後は、条約改正議会副委員長となりました。1886年(明治19年)3月、第1次伊藤内閣の外務大臣井上馨のもとで外務次官となり、条約改正交渉の中心人物として活躍します。
1889年(明治22年)12月24日に第1次山縣内閣の外務大臣に就任。対英条約改正交渉をみずから指揮して駐日イギリス公使との交渉を進め、領事裁判権撤廃の条約改正に奮闘します。青木の条約改正案は従来のものと異なり治外法権に関して「対等合意」(外国人裁判官の大審院への不採用、外国人不動産は領事裁判権を撤廃しない限り認めないことを明記)を目指しました。交渉は成功しかけていましたが、交渉成立寸前の1891年5月に大津事件が発生し引責辞任、交渉中断となってしまいました。後任の外相には陸奥宗光が抜擢され、陸奥は青木に駐イギリス公使を任せました。そして、1894年(明治27年)、駐英公使として外相の陸奥とともに青木は条約改正に尽力、ついに日英通商航海条約を改正して、領事裁判権の撤廃に成功したのでした。