ラジレキ

要点から背景まで、流れでおさえる日本史の全体像

日本史の学び直し.com

  • 日本の夜明け
  • 大和王権と古墳文化
  • 古代国家の成立
  • 権力闘争と貴族の時代
  • 武士階級の台頭
  • 武家社会の動揺
  • 動乱の戦国時代
  • 幕藩体制の始まり
  • 発展する経済・文化
  • 揺らぎ始める幕藩体制
  • 明治維新と近代国家の形成
  • 脱亜入欧、日清・日露戦争
  • 第一次世界大戦
  • 第二次世界大戦
ラジレキ

日清講和条約(下関条約)

日清講和条約(にっしんこうわじょうやく)/下関条約(しものせきじょうやく)は、1895年(明治28年)4月17日に日本と清の間に締結された日清戦争の講和条約です。山口県下関市の料亭春帆楼での講和会議を経て締結されました。調印者は、日本側全権が伊藤博文・陸奥宗光、清国側全権が李鴻章・李経方(李鴻章の甥、養子)。

下関条約では、以下の内容が定められました。

①朝鮮の独立

②台湾・澎湖列島・遼東半島の日本への割譲

③清から日本への2億両の賠償金支払い

①の目的としては、それまで朝鮮は清が宗主権を有する国であり独立国ではないと、清は主張をしていました。日清戦争の勝利によって日本はこの清の主張を取り下げることができました。朝鮮はこの下関条約において定められた朝鮮の独立を内外に示すために、1897年に「大韓帝国」と国号を改称し、朝鮮国王は「皇帝」に即位しました。

②台湾・澎湖列島については日本の領土となりましたが、下関条約の批准書交換前に遼東半島については、三国干渉があり日本は領有を放棄させられました。

③賠償金「2億両(テール)」は日本円に換算すると3億6000万円を超える金額で、当時の日本の国家予算がおよそ8000万円程度でしたので、日本の歳入の4年分に相当する莫大な金額です。賠償金の多くは軍事費に充てられ、また日本の国内鉄鋼業の中心となる八幡製鉄所の建設資金にも充用されました。

関連する学び直しノート