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斎藤実

斎藤実(さいとう まこと)は、海軍軍人、政治家です。第30代内閣総理大臣を1932年5月26日から1934年7月8日まで務めました。

海軍軍人としてキャリアを歩み、1884年から1888年まで現地駐在武官を兼任しながらアメリカ留学をし、帰国後は艦長や海軍次官などを歴任。1906年から1914年までは海軍大臣を務めましたが、シーメンス事件によって海軍大臣を辞任しました。1919年には朝鮮総督に就任し、その後ジュネーブ海軍軍縮会議全権委員や枢密顧問官などを経て、1929年に朝鮮総督に再任されます。1931年に満州事変、1932年に五・一五事件などの事件が次々に起きる中、犬養毅の暗殺後の総理大臣に就任しました。政党政治に対する不満、陸軍の暴走への歯止めなどを考慮し、海軍の長老であり、英語も堪能な国際協調的な穏健派である斎藤に白羽の矢がたった格好でした。

齋藤内閣は立憲政友会と立憲民政党の双方から大臣を迎えた挙国一致内閣(連立内閣)として閣内を構成。蔵相に留任させた高橋是清の下、積極財政を継続して、翌1933年(昭和8年)には他の主要国に先駆けて昭和恐慌前の経済水準に回復し、国内の安定に努めました。

また、軍部の方針とも大きく対立はせず、1932年9月15日、日満議定書を締結し満洲国を承認。その後国際連盟総会にて日本側の主張が却下されると、1933年3月27日、国際連盟脱退を日本政府として表明しました。しかし一部軍人からは、元来リベラル派である斎藤への反感や、陸軍予算折衝で荒木陸相を出し抜いた高橋蔵相への反発などから、閣僚のスキャンダル暴きが行われてしまいます。

1934年には帝人事件が勃発します。これは、鈴木商店倒産に伴い台湾銀行の担保とされた鈴木商店の子会社である帝国人造絹糸(帝人)株式22万株をめぐって、財界グループ「番町会」が買い戻しの依頼を受け、その後の帝人増資で株価利益を上げた問題です。この事件で、帝人社長や番町会のメンバー、台湾銀行頭取、大蔵次官など16名が起訴される事態となり、齋藤内閣は綱紀上の責任を理由に、同年7月8日総辞職しました。

この帝人事件は、265回にわたる公判の結果、1937年10月に全員が無罪判決を得るという異例の経過をたどります。そのため、検察内の平沼騏一郎派、陸軍将校、立憲政友会右派らが倒閣の為に仕組んだ陰謀であったと見られています。

内閣総辞職後には、斎藤は、内大臣に就任。皇道派の陸軍中堅、青年将校から天皇をたぶらかす重臣として目の敵にされ、1936年2月26日に発生した二・二六事件において斎藤は殺害されてしまいました。

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