平沼 騏一郎(ひらぬま きいちろう)は、司法官僚、検察官出身の政治家です。数々の要職を歴任し、第35代内閣総理大臣に就任します(1939年1月5日~1939年8月30日)。
右派の立場から金融恐慌問題やロンドン軍縮条約問題で政府を批判したことで、保守・右派や軍からの人望を高め、1931年(昭和6年)の満州事変勃発後は平沼内閣待望論が高まりました。しかし、この時は元老の西園寺公望に忌避されて実現しませんでした
。 1939年(昭和14年)1月に第1次近衛内閣の跡を受けて第35代内閣総理大臣に就任。日独軍事同盟の成立に苦心しましたが、1939年8月に独ソ不可侵条約の締結により「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」との声明を残して総辞職しました。その後は、第2次近衛内閣にも国務大臣・内務大臣として入閣し、第3次近衛内閣でも国務大臣を務めましたが、近衛の新体制運動に水をかけるような役割を演じます。太平洋戦争中には重臣の一人として東条内閣の倒壊工作に関与。ポツダム宣言受諾をめぐる御前会議では、陸軍側の4条件案に反対して和平条件は国体護持のみに絞ることを主張しました。戦後極東国際軍事裁判においてA級戦犯として終身禁錮刑に処され、1952年8月に服役中に死去しました。