ラジレキ

要点から背景まで、流れでおさえる日本史の全体像

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堺利彦

堺利彦(さかい としひこ)は、日本の社会主義者・共産主義者・著述家です。「萬朝報」の記者として活躍して、社会改良主義を主張する論説や言文一致体の普及を図る一方で、社主の黒岩涙香や同僚の内村鑑三幸徳秋水らと理想団を結成して社会主義思想に共鳴し、非戦論を唱えます。しかし、萬朝報が日露戦争に際して非戦論から主戦論に路線転換したために内村・幸徳と共に退社して「平民社」を開業。週刊「平民新聞を発行して非戦論・社会主義の運動を開始しました。

堺はその後、週刊「平民新聞」第53号(1904年(明治37年)11月13日)に幸徳との共訳で「共産党宣言」を翻訳して掲載します。これは、サミュエル・ムーアが訳した英語訳からの重訳でしたが、日本における最初の共産党宣言の翻訳となりました。

1906年(明治39年)には日本社会党を結成して評議員・幹事となり、日本の社会主義運動の指導者として活躍を開始しました。1908年(明治41年)の赤旗事件で2年の重禁固刑を受けますが、その入獄中に「大逆事件(幸徳事件)」が発生。萬朝報で同僚だった幸徳が処刑されます。堺は獄中にいたため難を逃れましたが、出獄後は社会主義のいわゆる「冬の時代」を過ごしつつ、全国の社会主義者との連絡を維持します。

堺は1922年(大正11年)に、第一次共産党の結成に参加するものの離脱。その後、東京無産党を結成して活動を続け、1929年(昭和4年)に東京市会議員に当選しました。

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