由井正雪の乱(慶安の変)は、徳川家光の死を契機として由井正雪らによる幕府転覆計画が事前に露見して頓挫した事件です。
由井正雪は優秀な軍学者で、幕府からも「うちにこないか?」とヘッドハンティングされるほどでしたが、幕府への就職を断り、軍学塾を開いて多数の塾生を集めていました。この頃、江戸幕府では3代将軍・徳川家光の下で厳しい武断政治(大名抑圧政策)が行なわれていました。その結果、関ヶ原の戦いや大坂の陣以降、多数の大名が減封・改易されたことにより、浪人(失業武士)の数が激増していました。失業者があふれる一方で、再仕官の道も厳しく(平和な時代なので、武家の新規雇用は増えない)、また、鎖国政策によって山田長政のように日本国外で立身出世する道も断たれてしまっていました。
浪人の中には、武士として生きることをあきらめ、百姓・町人に転じるものも少なくありませんでしたが、浪人の多くは、自分たちを浪人の身に追い込んだ御政道(幕府の政治)に対して否定的な考えを持つ者も多く、また生活苦から盗賊や追剥に身を落とす者も存在していて、大きな社会不安に繋がっていました。正雪はそうした浪人の支持を集め、特に幕府への仕官を断ったことで彼らの共感を呼び、彼の塾には御政道を批判する多くの浪人が集まるようになっていたのです。
このような情勢下の慶安4年(1651年)4月、徳川家光が48歳で病死し、後を11歳とまだ幼年の徳川家綱が継ぐことになります。新しい将軍がまだ幼く政治的権力に乏しいことを知った正雪は、これを契機として、幕府の転覆と浪人の救済を掲げて行動を開始します。計画では、まず幕府の火薬庫を爆発させて各所に火を放って江戸城を焼き討ちし、これに驚いて江戸城に駆け付けた老中以下の幕閣や旗本など幕府の主要人物たちを鉄砲で討ち取り、家綱を人質に取る。それと同時に、正雪は京に赴いて天皇を誘拐して政治の実権を奪い取る手筈でした。
しかし、内部からの密告により、計画は事前に露。慶安4年(1651年)7月23日からメンバーが江戸で捕縛されます。その前日である7月22日に既に正雪は江戸を出発して、計画が露見していることを知らないまま、7月25日に駿府に到着。翌26日の早朝、駿府町奉行所の捕り方に宿を囲まれ、由井正雪は自害して果てました。
江戸幕府では、この事件など教訓に、老中・阿部忠秋らを中心としてそれまでの武断的政治を見直し、浪人対策に力を入れるようになりました。改易を少しでも減らすために末期養子の禁を緩和し、各藩には浪人の採用を奨励したのです。幕府の政治はそれまでの武断政治から、法律や学問によって世を治める文治政治へと移行していくことになり、奇しくも正雪らの掲げた理念に沿った世となるに至りました。