徳川家綱(とくがわいえつな)は、江戸幕府の4代将軍です。3代将軍家光の息子ですね。1651年4月に父・家光が死ぬと、わずか数え11歳にて将軍となります。江戸幕府初の幼年将軍ですね。新しい将軍がまだ幼くて政治が不安定化すると考えられて、同年1651年に江戸幕府に対する浪人(失業武士)たちの幕府転覆計画である由井正雪の乱(慶安の変)が発覚。一味の密告によって事前に露見して、計画を頓挫させられましたが、幕府の首脳陣は衝撃を受けて、家光時代までの武断政治(強権的、大名抑圧的政治)から文治政治(穏健的、融和的政治)への転換を図りました。それまで禁止していた「末期養子(死の直前に養子を決めること)」を緩和したり、殉死禁止令が出されたりしました。江戸城の天守閣が焼失する「明暦の大火」などがありましたが、江戸幕府も成立から50年以上が経過し、政治・社会は安定をみせました。
政治・社会が安定する一方で、子宝に恵まれないまま、家綱は1680年5月初旬に病に倒れて危篤状態に陥ります。末弟の徳川綱吉を養子に迎えて将軍の後継者に指名して、その直後の5月8日に享年40歳で没しました。家綱の死により、徳川将軍家の直系世襲の形が崩れてしまいましたが、末期養子を緩和した将軍が、まさか末期養子を迎えることになるとは。