一条兼良(いちじょう かねよし/かねら)は、室町時代前期から後期にかけての公卿・古典学者。五摂家の一つである一条家の8代当主。官位は従一位・摂政、関白、太政大臣、准三宮と位人臣を極めました。
1412年にわずか数え11歳で、病弱であった兄の隠居に伴って元服して家督を継ぎました。その後、1432年に兼良は摂政となりましたが、1か月も経たずに辞退に追い込まれてしまいました。さらに摂政だけでなく、左大臣も辞任させられました。これは、時の天皇であった後花園天皇の元服を巡って「天皇の元服にあたっては、摂政は二条家、左大臣は足利将軍家が務めるのが慣例だ!」と二条持基(こちらも五摂家の一つ)が主張したためです。結果、摂政を持基に、左大臣を足利義教に譲ることになってしまいました。
その後、兼良は政治家として不遇をかこうことになりましたが、その一方で学者としての名声は高まり、将軍家の歌道などに参与していきます。
応仁の乱が勃発すると奈良などに避難しつつ、著作に力を入れます。応仁の乱が終息すると帰京。9代将軍・足利義尚や生母日野富子の庇護をうけながら、富子の前で『源氏物語』を講じ、義尚には『樵談治要』を贈りました。この『樵談治要』は、兼良の著作で、政治の指南書です。
兼良は、将軍家などの武家のみならず、公武を問わずに好学の人々に学問を教えていき、当時の人々から「日本無双の才人」と評され、兼良自身「菅原道真以上の学者である」と豪語していました。1481年に享年80で死没。その死に対して、「五百年来この才学無し」とまで惜しまれました。