実はここの部分、諸説アリではあります。確かに豊臣家の領地は、大坂城周辺の65万石になってしまいました。秀吉存命中には、豊臣恩顧の大名たちに預けていた蔵入地が140万石程ありましたが、これが消滅しました。さらに、豊臣政権として全国の鉱山や貿易港などを運営することによる収入も、中央政権下した徳川家に奪取されました。石高や経済力という面では、「一つの大大名」となったと言えます。その一方で、やはり全国有数の商業都市に発展していた大坂のまち、そして大坂城という巨大な城、豊臣のブランドネーム、秀吉の遺産を加味すると、とても一大名という枠には収まらず、また、徳川幕府とは違った「公儀体制(他の大名への命令権)」を持っていたとも言われています。官位をみると、秀頼は「右大臣」という地位にあり、征夷大将軍・徳川秀忠は「内大臣」とワンランク下でした。徳川家と比肩する地位にあったと言えます。しかし、両雄並び立たずということで、豊臣秀頼を本当の意味で「一大名」とする江戸幕府の施策に対して、両者は対立。そして、1614・1615年の大坂の陣を経て、豊臣家の滅亡となりました。
ざっくり用語解説
秀頼も領土を減らされて一大名となった。
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