徳川秀忠(とくがわひでただ)は、江戸幕府の2代目将軍です。家康の三男でしたが、長男信康が自刃、次男秀康が秀吉に養子に出され(もともと、家康が嫌っていたからとも)、秀忠が徳川家の後継者となりました。1605年に父・家康が将軍在職わずか2年でその地位を息子の秀忠に譲ったのは、徳川家によって征夷大将軍の地位は世襲されるものであると明示するためでした。戦争は苦手だったようで、関ケ原の合戦には徳川本隊3万8千を率いていたにも関わらず、途中で敵に足止めをくらって遅参。家康はしばらく対面を許さないほどの怒りを見せましたが、後継者の地位はゆるがず、江戸の町づくりなど内政では才能を発揮し、江戸幕府の基礎を固めた為政者として評価されています。極度の恐妻家としても有名で、姉さん女房である妻・お江に頭があがらず、当時としては珍しく側室がいませんでした。というか、側室を持つことを認められませんでした。完全に尻に敷かれていたんですね。その秀忠がこっそり浮気をして産ませた子が、保科正之(ほしなまさゆき)です。彼が徳川でも、松平でもないのは、秀忠が妻にバレるのを恐れて、保科家に養育を任せたからです。マジでビビッてたんですね。将軍なのに。そんなところも含めて個人的には悪い奴じゃなかったんだろうなと秀忠のことを思っています。
ざっくり用語解説
徳川秀忠
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