平城上皇の変ともいいます。上述の平城天皇は退位後、平安京を離れて奈良の平城京へと引っ込みます。薬子もついてきました。そうすると、平安京と平城京に、現天皇(弟、嵯峨天皇)と前天皇(兄、平城上皇)の二人が併存する状態となります。両者の対立・緊張が高まった結果、両雄並び立たずとなり、嵯峨天皇が先手を打って、平安京に残っていた、仲成を捕縛。平城京には坂上田村麻呂を派遣しました。平城上皇と薬子は東国に逃れて挙兵しようとしますが、勝機はないと断念し、薬子は自害、平城上皇は平城京へと戻りました。
変の後も、平城上皇は平城京に留まることが認められ、その経済的待遇は面目を保てるようにはしてもらいました。仲成は、射殺これにより藤原式家は没落します。ちなみに仲成以降、平安時代末期(1156年の保元の乱)まで死刑が実施されることがなくなりました。