第67代三条天皇の中宮に妍子
第68代後一条天皇の中宮に威子
と三人の中宮(天皇の一番上の后、実質皇后)を立てたことから、「一家立三后」(一家三后)と驚嘆されました。
この婚姻攻勢が、藤原氏摂関政治の最盛期を築く政治基盤となり、この頃に権力の絶頂にあった道長は、有名な望月の歌「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」を詠んだわけです。
ちなみに第69代後朱雀天皇の妃で、第70代後冷泉天皇を生んだ嬉子は、後朱雀天皇の皇太子妃時代に後冷泉天皇の産後の肥立ちが悪く、出産2日後に急逝したため、中宮にはなっていません。