嘉吉の徳政一揆(かきつのとくせいいっき)は、嘉吉元年(1441年)に徳政令を求めて京都及び近江など周辺地域で発生した一揆のことです。この年の6月に6代将軍・足利義教が嘉吉の変で殺害されると、まだ幼い義教の息子である足利義勝が後継者となり、政治的混乱が発生しました。そのような中、「将軍様が代替わりしたんだから「代始の徳政」(天下一同の徳政令)をしてくれや!」と、京都・近江坂本の馬借を中心に農民が蜂起しました。
結果、7代将軍・足利義勝(実際には幼少の将軍を後見した、管領の細川持之)は一揆勢の要求を受け入れて、京都近郊に対して嘉吉の徳政令を発布しました。1428年の正長の土一揆では、最後まで室町幕府としては公式な徳政令を出しませんでしたが、この嘉吉の徳政一揆では、一揆勢の要求を受け入れて室町幕府が徳政令を出したため、室町幕府の権威は大きく傷ついたのでした。