討幕の密勅(とうばくのみっちょく)とは、幕末の慶応3年10月14日(1867年11月9日)に、薩摩藩と長州藩に秘密裡に下された、徳川慶喜討伐の命令です。岩倉具視の側近・玉松操が起草していて、岩倉が主導的な役割を果たしました。この密勅と同時に、薩長両藩には会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬の討伐命令も出されました。
一方、徳川慶喜は同日10月14日に大政奉還を上奏し、翌15日に朝廷に受理されたため、討幕はその名目を失い、討幕の実行延期の沙汰書が10月21日に薩長両藩に対し下されました。
ざっくり用語解説
討幕の密勅(とうばくのみっちょく)とは、幕末の慶応3年10月14日(1867年11月9日)に、薩摩藩と長州藩に秘密裡に下された、徳川慶喜討伐の命令です。岩倉具視の側近・玉松操が起草していて、岩倉が主導的な役割を果たしました。この密勅と同時に、薩長両藩には会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬の討伐命令も出されました。
一方、徳川慶喜は同日10月14日に大政奉還を上奏し、翌15日に朝廷に受理されたため、討幕はその名目を失い、討幕の実行延期の沙汰書が10月21日に薩長両藩に対し下されました。
大政奉還により、江戸幕府が終わり、長きにわたった武家政治体制から日本の政治体制に変革が生じます。 戊辰戦争:明治政府と旧幕府勢力の対立 廃藩置県によって進められた中央集権化 富国強兵を目指しての近代化推進 歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
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