橋本左内(はしもと さない)は、幕末の武士、福井藩士です。嘉永2年(1849年)、大坂に出て適塾で蘭方医の緒方洪庵に師事します。福井にもどると、やがて福井藩主の松平慶永(春嶽)に側近として登用され、藩の政治、国の政治に大きな関わりを持つようになりました。
14代将軍を巡る将軍継嗣問題では、松平慶永を助け一橋慶喜擁立運動を展開し、幕政の改革を訴えます。また英明の将軍の下、雄藩連合での幕藩体制を取った上で、積極的に西欧の先進技術の導入・対外貿易を行うことを構想し、ロシアとの同盟を提唱しました。橋本左内は、帝国主義と地政学の観点から日本の安全保障を弁じた先覚者でもあったわけです。
しかし、安政5年(1858年)、大老となった井伊直弼の手により安政の大獄が始まると、松平慶永には隠居謹慎が命じられ、橋本左内は将軍継嗣問題に介入したことを問われて取り調べを受け、斬首となりました。享年26(25歳没)。まだ若く、まさに志半ばで死ぬことになり、本人は死罪にまでなるとは予想しておらず、最後はその無念さから泣きじゃくりながら死んでいったと伝わっています。