シーボルトは、ドイツの医師・博物学者です。どうしても日本にやってきたくて、当時ヨーロッパで唯一日本との関係を持っていたオランダ人と偽って1823年に長崎にやってきました。母語はドイツ語であるシーボルトの話すオランダ語は日本人通訳が使うオランダ語よりも発音不正確で「おまえ、ホントにオランダ人か?」と怪しまれますが、シーボルトは「自分はオランダでも山地出身なので訛りがあるんだ」といって切り抜けました。ご存知の方も多いかもしれませんが、オランダは英語では「ネーデルランド(低地地方)」で通っており、国土のほとんどが干拓地で平坦な国土で山地など存在しないオランダですが、当時の日本人の世界地理の知識では、そういった事情を知らなかったので、このシーボルトの言い訳が通じてしまいました。
なんとか入り込むことに成功したシーボルトは、長崎において医者として働きつつ1824年に「鳴滝塾」を開設して、日本各地から集まってきた多くの医者や学者に西洋医学・蘭学教育を実施しました。1825年には出島の中に植物園を作り、日本を退去するまでに1400種類以上の植物を栽培しました。1826年にはオランダ商館長(カピタン)の江戸参府に随行して、その道中を利用して日本の自然を研究することができました。江戸到着後には、将軍・徳川家斉に謁見し、多くの学者らと交流することができました最上徳内からは北方の地図を受け取り、天文方・高橋景保には、最新の世界地図と交換で最新の日本地図を受けとりました。
そんなシーボルトですが、1828年に帰国する際に先発していた船が難破。積み荷が日本の浜に流れ着くのですが、そこには持ち出し禁止とされた日本地図があったことから問題となります。地図返却を要請されたシーボルトはそれを拒否。そのため、幕府はシーボルトを国外追放処分としました。これをシーボルト事件といいます。
当初シーボルトは、帰国後3年くらいしたらまた来日しようと思っていましたが、この処分のため日本への再来日ができなくなってしまいました。
1854年に日本が開国し、1858年に日蘭修好通商条約が締結されると、シーボルトの追放処分も解除され1859年に再来日し、1861年には対外交渉のための幕府顧問を務めました。1862年に帰国。その後も再来日を計画していましたが、1866年に風邪をこじらせて死去。70歳でした。