平田篤胤(ひらた あつたね)は、江戸時代後期の国学者・神道家・思想家・医者です。復古神道(古道学)の大成者として位置づけられており、荷田春満・賀茂真淵・本居宣長と共に国学の四大人の一人とされています。
当初は、本居宣長らの後を引き継ぐ形で、儒教・仏教と習合した神道を批判しましたが、やがてその思想は宣長学派の実証主義を捨て、神道的方面を発展させたと評されることが多いです。観念的な世界に飛び込んでいったんですね。その結果、篤胤の学説は、各地の非支配層の有力者に信奉され、従来の諸学派をしのいで、幕末の思潮に大きな影響をあたえました。特に尊皇攘夷運動の支柱となったという意味で、日本の歴史を動かした思想家と言えます。
篤胤は独自の神学を打ち立て、国学に新たな流れをもたらしたのです。彼自身、神や異界の存在に大きな興味を示し、死後の魂の行方と救済をその学説の中心に据えました。そのために天地の始原・神祇・生死・現世と来世などについて、古史古伝に新しい解釈を加え、さらにキリスト教の教義も取り入れ、葬祭の儀式を定め、心霊や仙術の研究もおこないます。
神道のみを独善的に学ぶのではなく、仏教・儒教・道教・蘭学・キリスト教など、さまざまな宗教教義なども進んで研究分析し、西洋医学、ラテン語、暦学・易学・軍学などにも精通していた博学の人物です。なお、篤胤が大切にしていた新井白石肖像画が現在も伝世しており、学者としてすぐれ、実証的・論理的に学問をおこなう人物に対しては、相手が儒者であれ何であれ、深い尊敬の念を抱く姿勢を持っていました。
篤胤は、本居宣長同様、日本が他のどの国よりも優秀であると主張しますが、しかし、宣長のように日本人本来の心を取り戻すために儒学的知を排除しなければならないというような異文化排斥の態度を取りませんでした。しかし、その一方で、彼の学問体系は知識の広範さゆえにかえって複雑で錯綜しており、不自然な融合もみられるとも評価されています。
とはいえ、篤胤の神道は復古神道と呼称され、後の神道系新宗教の勃興につながっていったのでした。