第88代天皇。在位1242年‐1246年。承久の乱で後鳥羽上皇の討幕をいさめた土御門上皇の息子です。鎌倉幕府は、土御門上皇を罰する意図はなかったのですが、「父が配流になるのに自分が京に留まるのは忍びない」との本人の希望から、土佐(のち阿波)に土御門上皇も配流されました。承久の乱の前年に誕生した後嵯峨は、母方の叔父の元で育ちますが、苦しい生活をしていました。そんな中、1242年に四条天皇(後嵯峨のはとこ)が12歳で死去したため、思いがけず皇位を継承しました。後嵯峨の皇位継承にあたっては、同じ後鳥羽の孫として土御門上皇の弟である順徳上皇の息子もおり、公家たちはこちらを擁立しようとしていましたが、鎌倉幕府の意向によって後嵯峨が即位することになりました。こういった即位の経緯もあり、後嵯峨は鎌倉幕府を尊重します。初の皇族将軍となった宗尊親王は、後嵯峨の息子です。
その一方で、後嵯峨の次代については、兄・後深草の持明院統と、弟・亀山の大覚寺統の二系統に皇統が分裂(両統迭立)の状態を引き起こし、これが南北朝時代を生み出す原因となりました。