地租増徴案(ちそぞうちょうあん)とは、地租を上げようとすることです。
1897年に第2次松方内閣が軍備拡張に必要な予算確保のために、地租を60%引き上げる(2.5%→4%)地租増徴案を提出しようとしました。ところが、松方内閣の与党であった進歩党が野党自由党と結んでこれに反対して連立を離脱。内閣不信任案を突きつけられた松方内閣は衆議院解散に踏み切りましたが、選挙後の政権運営の目途が立たなかったこともあり、その直後に内閣総辞職に追い込まれました(1897年12月25日)。
続いて成立した第3次伊藤内閣は自由・進歩両党との連立交渉が不調に終わり、直後の第5回衆議院議員総選挙(1898年3月15日投開票)で自由・進歩両党が引き続き多数を確保したため、少数与党で議会に臨むことになります。伊藤内閣は地租増徴法案を提出しましたが、衆議院では大差でこれを否決。伊藤内閣はまたしても衆議院解散に打って出ましたが(6月10日)、直後に自由・進歩両党は合同して憲政党を結成、藩閥側では政権維持の目途が立たなくなったことから、憲政党に大命降下、第1次大隈内閣が成立し、地租増徴のめどは立たなくなりました。
一方、同じころ、これらの政争と並行して、渋沢栄一などが商工業者に対する営業税などの税率の高さに対して地租の税率は低すぎるとして増徴を支持する意見を唱え、帝国議会に地租増徴の請願を提出しました。これに対して、谷干城元農商務大臣を中心に反論を唱え、「地租増徴反対同盟」を結成するなど、世論も大きく割れていました。
ところが、憲政党は第6回衆議院議員総選挙(8月10日投開票)で圧倒的多数を占めたものの、内部闘争でわずか2ヶ月で「自由党系憲政党」と「進歩党系憲政本党」に分裂して、隈板内閣も倒れました。その後を継いだ第2次山県有朋内閣は、自由党系憲政党を与党に迎えるべく政策協定を行い、その結果、地価軽減方式の流れを汲む地価計算方法の見直しによる地域間格差の是正と1899年度からの5年間限定にすることを条件に地租の32%引上げ(2.5%→3.3%)に合意しました。1898年12月27日、地租増徴法案は成立。1899年4月より5年間限定で地租が3.3%(市街地では5%)に引き上げられたのでした。
この地租増徴は5年限定でしたので、本来であれば1904年4月1日には税率を元に戻す予定になっていましたが、その直前の1904年2月に日露戦争が勃発し、戦費調達のための非常特別税法が成立すると、4月1日に3.3%から2.5%に戻すところを逆に4.3%(市街地では8%、郡部宅地では6%)に引き上げられ、更に1905年1月1日からは5.5%(市街地では20%、郡部宅地では8%)に再度引き上げられました。