憲政党(けんせいとう)は、明治時代の日本の政党です。
帝国議会創設期の二大政党であった自由党(板垣退助)と進歩党(大隈重信)が、第6回衆議院議員総選挙を前に合同して「憲政党」を結成しました。この直後、藩閥側の中枢である元老会議は、選挙後も巨大勢力を維持することは確実の憲政党と対立しての政権運営は不可能と判断して、憲政党の板垣・大隈両名を首相に推挙すし、これにより、史上初の政党内閣である第1次大隈内閣(隈板内閣)が発足しました。
しかし、元々地盤や政治思想などの利害対立があった自由、進歩両党の合同による政党であったため、党運営、政権運営を巡って混乱が発生。大臣ポストの配分問題が引き金となり、旧自由党が旧進歩党を出し抜く形で憲政党を解党、同時に内閣からも閣僚を引き上げ、党、内閣ともに、約4か月の短命に終わりました。
この時、憲政党の解党とともに、旧自由党のみで同名の別政党「憲政党」を新たに結成、党名を独占する形で自由党を復活させました。こちらの憲政党(自由派憲政党)は、旧自由党以来の縁であった伊藤博文の新党構想に党丸ごと参加する形で立憲政友会へと改組し、大正から昭和前期にかけての二大政党の一翼を担います。
一方、出し抜かれた側の旧進歩党は、対抗して「憲政本党」を結成、政友会の後塵を拝する形となりましたが、離合集散を経て立憲同志会・憲政会時代には与党となり、その後は二大政党の一翼である立憲民政党を組織しました。