寛喜の大飢饉(かんきのだいききん)とは、1230年(寛喜2年)から1231年(寛喜3年)に発生した大飢饉で、鎌倉時代を通じて最大規模の飢饉となりました。
飢饉発生の理由は、異常気象で、長雨と冷夏で、1230年7月下旬に現在の岐阜県南部・埼玉県にて降雪が記録されました。一方で、同年の冬は極端な暖冬となり、他の作物の作付にも影響を与えてしまいました。このため、翌年の春になると、収穫のはるか前に、わずかな備蓄穀物を食べ尽くした状態となり、各地で餓死者が続出。「天下の人種三分の一失す」とまで語られる規模に至ってしまいました。特に京都、鎌倉には流民が集中し、市中に餓死者が溢れる事態となりました。
藤原定家の日記『明月記』にはその状況が詳しく書かれており、寛喜3年9月には北陸道と四国で凶作になったこと、翌7月には餓死者の死臭が定家の邸宅にまで及んだこと、また自己の所領があった伊勢国でも死者が多数出ていて収入が滞った事情が記されています。
当然、社会は不安定化し、生き残るために民衆は自分自身を売却したり、質入したりするケースも相次ぎました。
そのため1231年に御成敗式目が制定された背景に、寛喜の大飢饉にともなう社会的混乱があったといわれています。また、宗教的には、親鸞や道元の活躍した時期と重なっており、とくに東国で親鸞が「絶対他力」を提唱したことについて、現代の歴史学者・網野善彦は、こうした親鸞の思想の深化には、越後国から常陸国にうつった親鸞が、そこでみた大飢饉の惨憺たる光景に遭遇したことと深くかかわっていると指摘しています。