三月事件(さんがつじけん)とは、1931年3月20日(金曜日)を期して、日本陸軍の中堅幹部によって計画されたクーデター未遂事件のことです。陸軍参謀本部のロシア班班長であった橋本欣五郎ら「桜会」のメンバーが、民間右翼の大川周明らと計画を立案しました。濱口内閣(当時、濱口は襲撃事件で重傷を負い、幣原喜重郎が代理を務めていました)を倒閣し、宇垣一成陸相を総理大臣に指名させる計画でしたが、宇垣の同意が得られず未遂に終わりました。
本件は、クーデター未遂という大事であり、本来ならば軍紀に照らして厳正な処分がなされるべき事件であったにもかかわらず、陸軍首脳部が計画に関与していたことから、首謀者に対して何ら処分が行われず、陸軍は緘口令を布いて事件を隠匿します。
そのため、三月事件は、これ以降頻発する十月事件や二・二六事件などの軍部によるクーデター計画の嚆矢の事件として記憶されています。
なお、宇垣は事件後陸相を辞して、朝鮮総督に就任。1937年(昭和12年)には組閣の大命を受けるに至りますが、本事件や「宇垣軍縮」が災いし、軍部大臣現役武官制を盾にとった陸軍の強硬な反対に遭い頓挫。その後たびたび首相候補として名を連ねましたが、ついに首相の椅子に座ることはありませんでした。