畠山政長(はたけやま まさなが)は、室町時代後期から戦国時代初期の武将・守護大名です。色々とややこしいですが、三管領の一つである畠山家の相続問題が応仁の乱のきっかけの一つとなりました。その畠山家でのお家騒動の主役の一人ですね。元々、畠山家は、畠山持国という人が家長を務め、幕府の管領にも就任しました。しかし、持国にはお家を継がす嫡子がいませんでした。そのため、持国の弟である畠山持冨が後継者に指名されていました。足利将軍家と似たような話ですね。こういう既定路線が定められていたんですが、持国は突然、庶子である畠山義就を後継者にすると宣言したため、畠山家に内紛が勃発したのでした。持冨が死に、その後は政長の兄が家督を主張していましたが、その兄も間もなく死に、畠山政長が反義就派のトップとして畠山義就と激しく対立することになりました。この畠山家の内紛に足利将軍家の家督問題、さらに有力守護大名同士の勢力争いなどが重なって、応仁の乱が勃発します。足掛け11年に及ぶ大乱後にも、政長vs義就の争いはやまず、山城国の領有をめぐって争いが続いたことから、現地国人層の反発を受けて、山城の国一揆が起こりました。最終的に幕府での地位などは政長が確保しつつ、領国に関しては義就が優勢という流れでした。1493年に政長は10代将軍足利義稙(当時の名前は義材)とともに、義就の息子(義就は既に死去)を攻めましたが、明応の政変が勃発して、将軍は解任され政長は自害に追い込まれてしまいました。