統制派(とうせいは)とは、大日本帝国陸軍内に存在した派閥で、皇道派と違い、政府内部から政治上の要望を実現するという合法的手続きを進めることで欧米列強に対抗していく国家を形成しようとしました。
皇道派全盛期に、陸軍大臣となった皇道派の首領である荒木貞夫ですが、露骨な派閥人事をする一方で、軍拡に関心を示さずに予算獲得に失敗して、軍部内での勢力が衰えていきます。その結果、荒木らを見限った勢力によって後に統制派とよばれるグループが形成されていきました。
統制派の中心人物であった永田鉄山が、1935年に皇道派の相沢三郎中佐に暗殺された相沢事件の後、皇道派と統制派の対立は激化しますが、皇道派が引き起こした二・二六事件が鎮圧されると、皇道派将校は予備役に追いやられ、さらに退役した皇道派の将校が陸軍大臣になることを阻むべく軍部大臣現役武官制を復活させました。これにより陸軍内での対立は、統制派の勝利という形で一応の終息をみせます。
しかし、その後、皇道派を追い落とすために復活させてた軍部大臣現役武官制を利用して、陸軍に非協力的な内閣を倒閣するなど政治色を増していきます。そして、最終的に、永田鉄山の死後に統制派の首領となった東條英機の下で、全体主義色の強い東條内閣を成立させるに至り、日本は日米対決の道を歩むことになっていったのでした。