ラジレキ

要点から背景まで、流れでおさえる日本史の全体像

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藤原惺窩

藤原惺窩(ふじわら せいか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての儒学者。公家の「冷泉(れいぜい)」家に生まれましたが、家名の冷泉をあえて名乗らず、中国式に本姓の藤原および籐(とう)を公称しました。

あらためてですが、昔の日本人は「姓」と「苗字」は別物でした。「姓」だと藤原・源・平・橘とか種類が少ないため、「どちらの藤原さん?」となってしまうため、姓よりも「苗字」を普段使いしていました。お住まいが由来となる「一条」とか「三条」とかですね。あるいは出身地である「足利」とか「新田」とかになるわけです。

しかし、この苗字ってものは中国にはないわけで、儒学者として中国への憧れを強く持っていた惺窩は、「冷泉惺窩」とは名乗らずに「藤原惺窩」と名乗ったのです。

さて、惺窩の人生・人物紹介にうつりましょうか。彼は禅と朱子学を学びました。学問探究の想いが募り、明に渡ろうとしますがかないませんでした。。その後、朝鮮儒者・姜沆と交流し、その助力を得て『四書五経倭訓』を著しました。四書五経とは「論語・孟子・大学・中庸」の四書と、「書経・易経・詩経・礼経・春秋」の五経です。これが儒学の根本経典だと朱子学において定められているものですね。なので、惺窩は朱子学がベースとなりますが、その一方で、陽明学も受容し、仏教にも寛容な姿勢を見せるなど懐の大きさを見せます。

近世日本儒学の祖といわれて、門弟のなかに林羅山らがいました。豊臣秀吉・徳川家康といった天下人に儒学を講じて、家康からは仕官することを要請されましたがこれを辞退。その代わり、門弟の林羅山を推挙しました。

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