松岡洋右(まつおか ようすけ)は、外交官、政治家です。アメリカ留学経験もあり、類稀な英語力を買われ、1932年12月に満州事変後の国際連盟総会に全権として派遣されました。脱退を避ける方針で連盟総会に臨んだといいますが、結果として1933年2月に脱退の宣言書を朗読して会場から松岡は退場しました。翌3月に日本政府は脱退を決定しました。その後、南満洲鉄道(満鉄)総裁を務め、1940年に成立した第2次近衛内閣では外務大臣に就任し、日独伊三国同盟や日ソ中立条約締結を推進しました。しかしドイツのソ連侵攻後は南進論が大勢を占める政府で北進論を主張し、第3次近衛内閣発足を機に事実上外相を解任されます。
戦後の1945年11月19日、GHQは、松岡による三国同盟の主導、対ソビエト戦争の主張などから戦犯として逮捕・拘禁。死刑判決は免れない情勢でしたが、持病の結核が悪化し、1946年(昭和21年)6月27日に公判中に死去、66歳。
ちなみに佐藤栄作は義理の甥にあたります(松岡から見て佐藤栄作は、松岡の妹の娘の婿。松岡の姪の婿)。