北条時頼(ほうじょう ときより)は、鎌倉時代中期の鎌倉幕府第5代執権(在職:1246年 - 1256年)です。北条時氏(3代執権泰時の息子)の次男で、4代執権北条経時の弟。8代執権北条時宗らの父。兄の死に伴い、1246年に執権に就任しましたが、評定衆のメンバーは時頼を支持しませんでした。同年、前将軍である藤原頼経をはじめとする反北条勢力がクーデターを画策しますが、時頼は鎮圧に成功。頼経を京都に強制送還しました。さらに翌1247年には、有力御家人一族である三浦一族を、宝治合戦にて滅亡させることに成功。時頼の執権としての地位と権力のみならず、北条得宗家(北条家の嫡流本家のこと)独裁・専制体制が盤石化していきます。1252年には、将軍藤原頼嗣(頼経の息子)を追放して、初の皇族将軍として、後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王を擁立しました。
独裁体制を固める一方、新たに評定衆の下に引付衆を設けて、訴訟や政治の公正化、迅速化に尽力しつつ、京都大判役の奉仕期間を半年から3カ月に短縮しました。