禁門の変(蛤御門の変)とは、八月十八日の政変や池田屋事件で窮地に立った長州藩が元治元年(1864年)7月19日に京都に進軍しておきた武力衝突事件です。長州藩は、会津藩主の松平容保を討ち、孝明天皇に長州藩主・毛利家の名誉回復を嘆願する名目でした。 御所の蛤御門が最大の激戦地となり、京都市中において市街戦が繰り広げられました。畿内における大名勢力同士の交戦は、大坂夏の陣(1615年)以来のことであり、京都市中も戦火により約3万戸が焼失するなど、太平の世を揺るがす大事件となりました。
なお、禁門とは、「朝廷御所(天皇の住まいである)の門」という意味です。その禁門の一つとして蛤御門があります。